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病人としての祖母~地獄の介護録~

前回はこの家の本来の持ち主である祖母の過去について書いた。今回は祖母が認知症になってからの話をしようと思う。

 

元々祖母はかなり忘れっぽい性格で、周囲も認知症に気付いていなかった。だが私が高校1年の時一気に悪化し、要介護レベルも一気に上がった。母も山口に時々行っては面倒を見て、それ以外の期間はヘルパーさんに介護をお願いしていた。一番苦労したのは祖母の弟、私の叔祖父にあたる人である。家は車で20分程度の所ではあるが、定期的にこの家に訪れては祖母の面倒を見たり、郵便物の確認や病院へ送ったりとかなりの負担だったはずだ。今も病院とのやり取りや郵便物関連はお願いしている。

 

だが認知症以外にも、祖母は膵臓を悪くして嫡出した影響による身体の不調を抱えており、この家の近くの病院では治療できず、入院しようにも複数の病気を患っていることによる難しさがあったりで治療の目処は中々立たなかった。結局祖母を一定期間京都の我が家に移し、介護をしながら通院させることになった。京都に来た頃には自分の娘である私の母を認識するのも難しく、私や私の兄弟のことは完全に忘れていた。

 

だがこの介護は我々家族にとってかなりの負担になった。突然の環境の変化によるショックからかさらに認知症は悪化し、食欲以外の意欲はなくなり、一日中ベットに寝たきりになった。トイレに行くことも1人ではままならなかった。しかも高血圧ということもあり食事も食べる順番に至るまで管理しなければならなかった。

何より困ったのは深夜の徘徊である。夜中に起きては自分で鍵を開けてまで外に出ようとしたり、台所の食べ物を食べようとしたりする。仕方なく当時高校生の私と大学生の兄、そして母は交代ごうたいで祖母の寝る部屋のすぐ近くにあるリビングに布団を敷いて寝た。さらに見張り業務に加えて深夜3時に祖母を起こし、薬を飲ませてトイレに行かせるという仕事もあり、我々の健康はどんどん崩れていった。

兄と私は睡眠の質が崩れやすく、深夜3時の就寝と不慣れなリビングでの睡眠で翌日の体調は最悪であった。母も介護のストレスから怒りっぽくなり、祖母を怒る声が毎日のように響いていた。私もストレスに耐えきれず、言うことを聞かない祖母を乱暴に扱ったりした。

 

ようやく入院の目処がたったのは私が高3になってから。正確な時期は覚えていないが、当時はコロナがもっと恐れられており、特に酷かった京都からの患者であるため祖母は入院の前に2週間の隔離が必要となった。祖母は今私がいる家で母の世話の下2週間の自己隔離をした後、ようやく入院することが出来た。今入院している病院は治る見込みのない患者を介護しながら治療する病院で、「姨捨山病院」とまで呼ばれている。

 

僅か1,2年ではあったが、介護しながらの生活は地獄だった。心身ともに健康が侵され、言うことを聞かない老人の世話をする。自分の祖母ではなく、人間の体を持つ獣を世話している気分だった。コロナによる休校期間も重なり、そのストレスを発散出来る場所もなく、半ば気が狂った状態で世話をしていた。自殺まで考えるレベルまで追い詰められていた。

 

現在、介護する側による暴行や殺人、心中、介護職員の不足など、様々な介護に関する問題が話題になっている。介護の苦痛を知った身としてはその原因は痛いほどわかる。私は短期間で済んだが、まだまだ続いていたら何かしらの罪を犯していたと思う。自分の健康を害しながら何の愛嬌もない老人の世話を四六時中するのだ。メッシと同等のお金を貰ったってやりたくない。そんな仕事を普通の賃金でやろうという人など、よっぽどの人格者以外いないだろう。介護職の人達には尊敬しかない。