山村の春
ここで暮らしていると、自炊が時々面倒くさくなる。お惣菜の類を買わないと親と約束したのでコンビニおにぎりで済ます、という訳にもいかない。そもそも自分はあまり味の濃いものが好きではない。
そんなある時、家のインターホンが鳴った。
二軒隣のSさんご夫婦だ。70歳前後のよくいるおじいちゃんとおばあちゃん。祖母と大変仲が良かったらしく、一昨年祖母を一時的に京都で介護していた時も一週間に一回くらい電話をかけてきていた。
「一人暮らしは大変でしょう?」
と言って渡したビニール袋には、手作りの餃子と中華サラダが入っていた。
「あまり肉たくさん詰めてないけど食べてね」
と言って、まだ温かい、作りたてのおかずを渡して、ニッコリ笑って帰って行った。
写真は少々ボケているがその日の昼に美味しく頂いた。
3日前、餃子の一週間後、またインターホンが鳴った。今度はおばあちゃんが、唐揚げを持って来てくれた。その日は自分の機嫌も良かったので炒飯と中華風スープを添えて夜に頂いた。揚げ物はここに来て初めて食べた。
そして今日も鳴った。今度はおじいちゃん。手にはおにぎりとかき揚げ。もはや申し訳なくなる程である。食材も手間も時間も、そこまでかけて頂くと、何も返さないこと、返せないことを罪に感じる。
いつかやった京大国語にあった。こんなやり取りが。串田孫一著『山のパンセ』より「山村の秋」。先生が演習の授業で特別時間をかけて解説した、かなり心に残った文章だ。
その中で筆者は、訪れた山村の農家の人に柿をとって貰い、お金を払おうとすると断られる。そして筆者は都会の市場原理との差に一瞬戸惑いながらも田舎の古くも温かい、そこに住む人々も含めた情景に浸る。
今自分もそれに似た感覚がある。貰ったらそれ相応の物を返す。気づかないうちに自分はその経済原理にどっぷり浸かっていたようだ。
正直それは抜けない癖だと思う。それが悪いという訳でもない 貰ったものを当たり前と思う訳にはいかない。せめて、地域の掃除とかでもいいからお返しを出来るようにしよう。