片付けしながら宅浪生

古家を掃除しながらゆったり受験勉強

スポーツの価値創出

いよいよオリンピックが開催した。本来なら、受験などとっくに終わり、自宅のリビングでテレビに張り付いて競技を見るところだが、残念ながらオリンピックと同様に受験終了も1年延期してしまった。

オリンピック開催の賛否に関しては自分はどちらとも言えないという意見になってしまう。スポーツマンとして開催して欲しいという思いと、開催して大丈夫なのかという不安が混在している。きっと大会関係者にもそういった葛藤を抱えながら大会に望んでいる人がいるのだと思う。それを考えている時、スポーツの価値について考えることがあった。

 

ここまでしてオリンピックを開催するメリットは何なのか、スポーツの意義は何か。これはオリンピック開催問題を考える上でかなり重要だと思う。よく言われているのはスポーツが人々に与える精神的効果、そしてそれに伴う社会的効果だ。

 

前者に関しては経験がある人とない人で分かれる所だろう。大谷翔平の活躍に興奮したり、新記録の達成に喜んだり、母国の選手の勝利に沸いたり、選手背景にあるドラマに感動したりと挙げればキリがない。ただ、そういった効果はスポーツに興味のない人には小さいとも言える。

そして後者はオリンピックでは大きな要素となる。国内外からの観客の経済活動や、準備に伴うインフラ整備、競技の放映権などがある。こちらはあらゆる人に影響を与えると言える。

 

ただ、今回のオリンピックでは後者はかなり抑えられてしまった。無観客&規模縮小により経済効果はほとんど見込めない。むしろコロナの問題で不利益すら被りかねない。ならば前者にその価値を見出すしかない。そうなると、スポーツに興味のない人達が開催に反対するのも無理はない。

 

だが、この2つによるスポーツの価値の定義には気が進まない点がある。それは、そのスポーツに対する需要の量によってスポーツの価値が決まるということだ。即ちどれだけそのスポーツが人気かで価値が決まるということ。一見当たり前にも見える。だが、そうなると「人気のない競技」は価値がないということになる。

例えば私がやっていた競歩。その競技者は少なく、ファンも他競技に比べたら少ない、いわゆるマイナースポーツである。だが、競歩を愛する者として、「価値がない」と言われるのは悲しいものだ。人気はないとはいえ、競技者も観戦者も熱意をもって携わっている。それを否定するというのは乱暴ではないだろうか。

 

この功利主義的なスポーツの価値創造は一般的とはいえ、やはり問題点はある。だが、エンターテインメントとして音楽や芸能と同様に、人々に何らかの利益を与えなければならないのもまた事実である。そして、他の娯楽が制限される中、「特別」にスポーツのイベントが開催されている分、その利益はより大きく、より普遍的でなければならないのも事実である。それらを踏まえてどうスポーツに、オリンピックに価値を見出すか。それは開催を正当化する、或いは否定する1つの鍵となるだろう。