片付けしながら宅浪生

古家を掃除しながらゆったり受験勉強

無意味への回答

ここ数日は鬱に近い状態でほとんど何も出来ていない。2ヶ月に1回くらいこういう時期がある。そういう時はいつも布団に篭ってダラダラと過ごしている。

常日頃から結構ネガティブな方ではある。病院に行ったら鬱の診断を貰うかもしれない。だが、指標によっては日本人の7割くらいは鬱と認定されることもあるくらいだし、時間さえ経てば自分で対処で対処できる程度なのでわざわざ行こうとは思わない。何より、この状態こそが自分を学問としての哲学へと導いたということへの愛着がある。

 

高校に入学後数ヶ月頃からこんな感じだ。青年期によくあることなのだろう。アイデンティティの確立を目指して思索に耽る。それでも分からないから不安になる。自分の場合、進学校かつパイロット校にいたことから、周囲には自分よりもずっと優秀で個性的な生徒が多く、自己を確立できていないことの焦りと、彼らへの劣等感、そして勤勉さも含めた才能への渇望が不安を加速させた。

そして溜まりに溜まった不安はさらなる思索へと誘う。自分自身への疑問が次々に湧いてきて、ついには人間存在についてまで考える。高2の終わりまではその段階までで止まっていた。しかしそこにコロナ対策による休校期間がやってきた。

 

本当に何となくだった。ほとんど理由もなく、その期間に図書館で2冊の本を借りた。「哲学用語図鑑(田中正人著)」と「哲学マップ(貫成人著)」。当時の哲学との接点は世界史の授業で少し触っただけ。習った時には暇な人がいたもんだと軽く流した。しかし、コロナで時間が有り余って少し難しい本を読もうかとふと思った時に哲学を思いついたのだった。

 

読むや否や一瞬で引き込まれた。自分がずっと考え続けていたこと、さらには自分が小学生の時にふと思いついたことまでが論理的に美しく組み立てられていく。自分の求めていた完全回答は見当たらなかったが、確かにそれに近づいた。そしてそのロジックの美しさに魅了された。

 

いつからか忘れていたがずっと「消えたい」と願っている。生物的な死というより、この精神に重くのしかかる苦しみからの解放。生きるという行為に意味を見いだせていない今もまだ、その願望は残っている。だが、哲学が論理の力でその意味を与えてくれる気がしてならない。

 

よく哲学的な質問は「答えの無い問い」と表現される。だがこれは誤りだ。当人が納得すればそれは答えになる。哲学はそういった先人たちの答えの積み重ねだ。その中でもより人を納得させる力のある説や、後世に何らかの影響を与えたものが今に残っている。

 

だから私は疑問と不安の波が押し寄せた時には本を読む。きっと何かのヒントを教えてくれるはずだから。疑問に仮初の答えを与えてくれるはずだから。