片付けしながら宅浪生

古家を掃除しながらゆったり受験勉強

元・被害者として

今回はかなり真面目な話。

受験前までは好きで見ていたYouTuberがいじめ問題で炎上していると知った。敢えて名前は出さないが、知ってる人はいると思う。だがその問題に関してあれこれ言うつもりはない。

 

今回書きたいのはその際に思い出したこと。

自分は小学2年生の頃、いじめを受けていた。正確に言うと、自分を含めた3人が同様のいじめを受けていた。

○○(苗字)エキスと言われ、自分が何か、あるいは誰かに触れると、その「エキス」をクラスメイトは擦り付けあった。クラスの八割程度がそのノリに乗っかっていた。今思うと子供の悪ふざけだったのかもしれないし、当時も遊びの一環として捉えていた。最終的に母親に相談し、母親が担任に手紙を送り、クラス会とその後のクラス全員と担任の面談などを経て解決した。

 

よく、いじめのメカニズムとして加害者と被害者、そして傍観者の3種の人間がいるという説明がある。被害者はさらなるいじめが怖くて、あるいは大事になるのが怖くて声を出せず、傍観者は関係ないから、自分に飛び火するのが嫌だからという構図。

だが、あのいじめはその構図には当てはまらなかったし、この構図自体完璧に捉えられているとは言い難いと思う。

 

自分は加害者との関係に癒着していた部分があった。もともとコミュニケーションは苦手だったことからグループには属さず、そもそも1年生の時にはグループ自体存在しなかったのでグループ内での扱われ方が分かっていなかった。2年で急に固まるようになり、自分は何とかクラスの最大グループに入った。だが、足が速くて力の強い子が人気者の小学生において、自分は階級的には最下位。そんなグループに入れることだけで有難かったし、一緒に遊べる友達がいるだけで楽しかった。少々嫌な気持ちがしても、その分楽しいならいいと思っていたし、直ぐにその嫌な気持ちも忘れられた。未だに「いじられキャラ」でいるのも似たような心理なのかもしれない。

だから恐怖で声を上げなかったと言うより、自分がいじめられていたことに気づいてなかったのだと思う。本当にきつくなってはじめて気づいた。

また、自分はあの時、傍観者達が悪かったとは思わない。自分にとってはあのノリに参加しないだけで十分だった。クラスの大半が参加した遊び。それに入らないというのだけで十分抵抗として成立していた。

 

少し逸れるが「いじめられる側も悪い」という言い分がよくある。元被害者として、正直これも一理あるとは思う。いじめには何らかのきっかけがある。それは性格でも、出来事でもなんでもありだ。自分の場合はコミュニケーション能力の欠如と、それに起因する空気を読まない発言と人をイラつかせる言動だった。もちろん、それらが暴力やそれに類するものを行使する理由にはならないのは間違いない。

 

何が言いたいかというと、下手に一般的ないじめのメカニズムを基にいじめの解決をしたり、いじめに関してあれこれ関係ない人が発言するのはあまりよろしくないということ。当事者達の気持ちも色々だし、それを不完全な情報と知識をもとにあれこれ言うのは被害者も望んでいない。被害者が1番恐れているのは色んな人を巻き込んで、自分の想像以上に事態が混乱・激化・拡大することだと思う。

いじめを解決できるのは当事者と彼らが信用できる人達(専門機関等含む)だけ。全くの赤の他人は事態を深刻化させるに過ぎない。だからせめて「いじめは存在する」「もし自分の付近でいじめが発生したら解決に向けて行動する」の2点さえ知っていればいいと思う。

 

自分はあのころの加害者を恨んではいない。子供だったのだから仕方ない。むしろ解決後に仲良くしてくれたことに感謝すらしている。そしてあのころの経験が今の自分を構成していることは言うまでもない。お陰で少しは人の心を気遣うことができるようになったし、(ほんの)少しは共感ができるようになった。無論、だからといっていじめを擁護する気は全くない。